3本足のkindness

こんばんは、森川です。

 

今日は大学の夏祭りに参加していました。

 

人生で一番ポップコーンを食べた1日だったと思います笑

 

楽しかったな。

 

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優しさと思い遣り。

 

この2つに違いが生まれてきた。

自分の中で。

この頃。

 

 

優しさと、思いやること。

 

この違いってなんだろう。

 

noun/ verb

 

ってなっちゃう。

 

でもそういうわけではなく。

 

 

優しいことと、思いやりがあること。

 

 

改めて、この2つの違いってなんだろう。

 

 

本当はイコールになるはずなのかもしれない。

 

でも少なくとも、僕が経験しているこの世界においては、この2つは釣り合わない。

 

 

釣り合うべきであるのかもしれない。

 

この歪みは本来存在しないものなのだろうか。

 

 

 

問いへ▷

 

僕の中で、優しいことと思いやりがあることの何が違うのか。

 

これまでは、優しいってことは、人のことを思いやれるってことだって思っていた。

 

周りを見ていて、優しい人ばかりだなって。

 

僕は優しい人とよく言われる。

でもそういえば、人を思いやれる人ではなかった。

自分で自分を優しくないとも思っていた。

 

 

なんとなく、これは僕個人の感性だけど、

「優しい」は軽い。

 

 

相手を傷つけないことが優しさである。

少なくとも、僕が自分の周りの世界を眺めたときに、

僕の周りのこの小さな世界では、

例え広辞苑でなんと定義されていようと、

このように「優しい」は認識されている気がする。

 

 

素敵なことだ。

 

 

ただ当たり障りのない。

 

 

当たり障りのない素敵な優しい。

 

無害で無鉄砲な僕/私/拙者

 

 

 

思いやるってのは、ちょっと難しい。

 

相手にとっての最善を選ぶこと。

 

相手にとって最も良い事象を測る。

相手の現在を視る。

そして自分の行動を決める。

 

 

自分の行動はもちろん自分の可能性の範疇である。ということは忘れちゃいけない。

 

 

素敵なことだと思う。

 

難しい。

 

 

 

優しいは自己充足的である。

思いやりがあることは自己完結できない。

 

 

おかしいな。

 

 

優しいも、思いやりがあるということも、

自分ひとりでは決められないはず。

 

相手がどう受け取るのかが、大事な要素のはずではないのか。

 

 

 

美しい優しさと、醜い優しさ。

 

美しいものであるはずなのに、

身近な優しさは果たしてそれに見合っているか。

 

 

 

あまりにcheapに発されているから、

優しいの意味するところが歪んでいるのか。

 

 

 

優しい人と思い遣りのある人。

 

 

これらは合致すべきなのではないのか。

 

 

本当にこの間に溝は存在しているのだろうか。

 

 

 

優しいを誤使用しているだけではないか。

 

 

自分へ▷

 

優しい人はいつも優しいわけではない。

優しいは他者判断であるからこそ、

その場の自分の感性で相手を規定していることだって沢山あると思う。

 

でもきっと、今の自分は"優しい"という言葉を使うべきではないのだ。

なぜなら、優しいとは何かがわからないからだ。

 

ポストコロニアリズムを理解しないまま、

ポストコロニアリズムを背景にしてはいけないのと同じことだ。

 

 

それでも、思いやりは分かる気がする。

 

思いやりには像がある。

形象、イメージ。

 

 

 

今の自分は思いやりがあったのか。

それは判断できる。

少なくとも、結論を出すことができる。

 

 

半年前の自分より、相手を思いやれるようにはなってる。

いい変化だと捉えている。

 

立場、仲間、大切な機会、自分について知り始めていること。

 

そんなこんなを通して。

 

思いやりを忘れることなく。

自己に充足せず。

 

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