動く歩道的な生き方

日曜になると

目的地を決めないまま家を出て

 

降り立った駅の近郊で

手頃なカフェを見つけては

本を読んだり論文を書いたり

 

活字と向き合う1日を過ごす

 

それが日曜の習慣になって久しい.

 

 

今日も常のようにカフェを見つけて入ってみたは良いけれど

どうにも眠気が追い払えない

 

気がつけば11月1日

 

ここでひとつ

10月を振り返っておこうと思う.

 

 

10月は2つの習慣改革のひと月だった

 

ひとつには

以前のような恒常的なファスティングをやめて

食事の量を増やすように取り組んでいること

 

 

もうひとつには

起床時間と就寝時間を

これまで以上に早めてみたこと

 

どちらも生活に定着し

試み通りに物事が運んでいるのだとすれば

 

この上なく健康的な毎日を送れている筈だ.

 

生活の中で

心を乱されることもほとんどなく

ずっと水平式エスカレーターに乗り続けているみたいに

一定のペース一定の感覚一定の高さを生き続けているような気がする.

 

過度な満足も存在しない代わりに

過度な失望や悲哀も存在しないひと月

 

 

取り組むべきことが多かったから

そんな変化もあまり気にならなかったけれど

 

後ろを振り返ってみると

語るに足る人生だとは

とてもじゃないけど言えないようだ.

 

 

このようにブログに思うままを書く時間も

ほとんど取れていなかった

 

かと言ってこうではなかった10月を望むのかと問われると

他に選ぶ道がどこにも見えないから

後悔も欲望も浮かんでこないのであるが.

 

 

以前の自分であれば

このままこうして

終わりに向かって生きていく人生に対して

何かしら不安や不満

或いは改革意識といった類の感情を

抱いたことに違いない

 

 

それは悩みを招くものであろうし

考える苦しみに苛まれるような体験であろうけれど

 

少なくとも

人生を切り拓くことに必死であることを証明してくれる.

 

なぜだろうか

 

そんな気持ちも無くなってしまった

 

足るを知る生き方を志すようになったのだと

説明すれば聞こえがいいけれど

 

それはただ単に

僕が未来に希望を重ねる若年期を脱してしまったのかもしれないし

或いは動く歩道的な生き方に

あまりに慣れ切ってしまったからかもしれない.

 

 

このように自分の内奥の思索について書き連ねていることも

何かを希求しているからだとか

何かに不満を抱えているだとか

 

そうしたことでは決してなく

 

ただただ客観的に己を眺めて

なぜなのだろうと不思議に思っているだけ.

 

深海魚の水槽を眺めて

何故こんなところにヒレがついているのだろうと疑問を持つのと同じことだ.

 

 

求心力の欠如

 

それは危惧するべき事象なのだろうか

認めるべき事実なのだろうか.

 

 

 

10月の振り返りという名目はどこへやら.

 

 

11月

今の生活が劇的に変化することなど

まるであり得ないことだと思うから

 

 

兎にも角にも心身を完全に保つことに努めつつ

 

自由につらつら書き連ねる時間を少しでも

努々増やしていきたいと思う.

 

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