自転車と軽食

癖というわけではないけれど

僕にはひとつの個人的な習性がある

 

それは

自転車に乗りながら何かを食べたくなってしまうこと

 

それはおにぎりだったり

チーズだったり

大福だったりするのだけれど

 

湯船に浸かりながら歌いたくてたまらなくなってしまう人がいるように

自転車に乗ることと何かを食べることが

僕の中では密接に結びついている.

 

当たり前のことのように思っているけれど

案外人々を見渡してみると

同じことをしている人を見かけることはない.

 

それはただ人々が

自転車に乗りながら食べ物を頬張る姿を

心血を注いで隠しているだけなのかもしれないが.

 

 

今日も裂けるチーズを口に運びながら

悠々と自転車を漕いでいて

 

ふと

あまりこの行動をしている人を見かけないことに思い当たり

(客観的に考えてみれば危ない行為なのだろうから当然かもしれない)

 

なぜ自分はこの行動を身につけてしまったのだろうと思いを馳せた.

 

そして

その根源は高校時代にあるという結論に至った.

 

 

高校時代は片道1時間の自転車通学をしていたから

朝ごはんを家で食べきれなかったり

部活終わりの空腹の夜分に

長い道のりを漕いでいかなければならなかったりした.

 

すると1時間という通学の時間は

自然と何かを同時的にこなすべき時間となり

食べることはその空枠に選ばれることとなった.

 

思い返せば

 

学校から15分ほどのところにあるセブンイレブン

葡萄パンを買って

齧りながら家に帰るのが好きだった

 

それは安くて大きくて美味かったから

部活終わりの高校生が1時間の自転車道のお供とするにはぴったりだったのだ.

 

それに

幼い頃から小さな田舎町で過ごしていた僕にとっては

買い食いという行為自体が

幾許か自由の象徴としての意味合いを持っていたのだろうと思う.

 

毎日々々その日常を繰り返していたから

今でも自転車に乗ると

片手で何かを食べていたくなってしまう

 

それが例え

たった10分の道のりであろうとも

コンビニの前や辿り着いた先で何かを食べることよりも

自転車に乗りながら食べることを選ぶ.

 

この行為はきっと今でも

僕の中で自由の概念と共にあるのだ.

 

 

そんな風に思いを巡らせていたら

たった3-4年前の高校時代の記憶が

どこかに失われてしまったことに気がつくこととなった.

 

それは

まるで遠い昔のようで

まるで違う世界の出来事のようで

まるで違う頭が経験したことのようで

 

高校時代の記憶は

まるで劣悪業者の卒業アルバムみたいに

断片的で集合的で客観的にしか

 

思い起こすことができないようだ.

 

 

いつのまにか

10月ももう終わろうとしている

 

失われた時を思い

存在したはずの記憶を懐かしめない悲しみを抱きながら

 

それでも同じように歩を進めるほかないのだと

いつもと変わらぬ結論を眺めた.

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