喪失の美学

今日は久々に

まるで休日かのような過ごし方をした.

 

 

そもそも2週間以上

最寄駅周辺からも出たことがなかった程の内向的生活を

過ごしてきた事実には驚くばかりだが

 

1日を開け放って

本当にしたいのかもよくわからない

若干の遠出を敢行した.

 

 

大阪に住んでいるからには

一度は行ってみたいと思っていた店で

念願の昼飯を食べた.

 

焼けるような暑さの中

散歩をしようと考えたものの

暑さよりも人混みにほとほと嫌気がさして

 

結局洒落た本屋で物色する事に時間を費やした.

 

それから

やはり人混みから距離を取りたいが為に

 

大阪城公園に赴いて

曇天の中

 

ピクニックに楽しむ家族を横目に

幼年期に少し想いを馳せながら

 

ふらふらと

しかし確かに気持ちよく

当ての無い散歩をしていた.

 

 

結局のところ

休憩をと立ち寄ったタリーズコーヒーにて

Dear Evan Hansenを読み始めては

終わりまで一気に読み進めてしまった

 

すると帰るには十分な時間になっていた.

 

 

これが休日だ

 

過ごしたかったものなのかは

分からないけれど確かに休日であった.

 

 

人混みを過度に嫌っている事に気がついた

休日には自然を選びたい自らの気性も知った

 

単なる数字以上にたっぷりとした時間が存在していて

 

ゆっくりと吟味しながら時間を使い

読む機会を窺っていたフィクションを

一気読みしてしまうだけの贅沢も味わった.

 

 

これ以上何を求めようか.

 

 

 

 

思い出となるような経験ではなかったかもしれない

 

それでも自分が望んでいた時間の使い方の内の

ひとつではあるのだとわかる.

 

 

何に縛られることもなく

時間を贅沢に味わうこと

 

 

そんなゆるりとした休日の過ごし方を

尊ぶことができる人間であり続けたい.

 

 

しかし

"時間を贅沢に味わうこと"について.

 

 

思い出は得る類のものであるのに対して

 

時間を贅沢に使うという行為はどこまでも

失うことの延長でしかない

 

 

言い換えれば

 

思い出が

得ることによる喪失への反逆であるとすれば

それは失う事を受け入れて

美を追求する行為なのだ.

 

 

 

失うことへの反逆

失い方の美学

 

 

思い出がないことを嘆いていた

思い出がないことは嘆くべきことだと思う.

 

ただ

喪失感を実感し

喪失感を身に纏い

失っていることを理解しながら生活することは

 

僕の人生の大切な一部であるのだと思う.

 

 

得ることは人生を彩ってくれる.

しかし失うこともまた

人生を艶やかにする.

 

 

僕は

自分が失うことを求めていることを知っている.

 

失うことに

美を感じずにはいられないことを認識している.

 

 

されば

なぜ失うことを求めているのか.

 

それが新たな問題だ.

 

 

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