見合う

ゆっくりとブログを認める間もないまま

あっという間に過ぎ去っていった10月は

既に残すところ10日余りもない

 

今でもひっくり返って手を伸ばせば

10月1日を手のひらに掴むことができるのではないかと思うほど

 

たくさんの時間を使った感覚もないまま

それでも振り返れば確実に24時間を21日分終えようとしているのだから

 

その事実を受け入れる他はない.

 

 

これほど自意識の存在しない時間を生き抜いてきた自分に

残されたものは何だろう

 

 

10月が始まった頃からだと思うけれど

生活習慣が少し変わった

 

どうしてだか全く覚えていないのだけれど

これまで以上に早く寝て

これまで以上に早く起きる習慣を身につけた

 

とても健康的な生活をしている

 

ただ健康とはそう簡単に数値化できるものでもなければ

鏡を見て

前日の効用を確認できるものでもないから

 

獲得したものの存在を知覚することは難しい

 

それはまるで

いつのまにか言説化した理想の社会の情景を

あるがままに信じようとするようなものだ.

 

 

しかしながら

近頃よく頭に浮かぶ思索はあるもので

それはもしやひとつの獲得物になりやしないかと期待をかけてみる.

 

 

同じ行動を繰り返している日々の中で

自分が思いの外

色々なものを不必要だと断定できることに気がつき始めた

 

それは余儀なくされた人との接触や繋がりそのものに始まり

殆どの食べ物やスマホアプリや

雑貨や娯楽や家具や衣服

 

不必要なものは多岐にわたる

 

それらは見つかり次第定期的に生活の中から排除されていて

排除されてしかし懐かしまれることもない

 

その心持ちはどこから生まれているのか.

 

 

自分が何かに見合うという感覚は

自分に何某かの期待をかけていることを前提とする

 

ものを保有するということは

自分がそのものを所有するに見合っていることを認めているか或いは

それが自分に所属するべきことを期待しているから成り立つものであり

 

自分が何に見合うこともないと考えている人間には

きっとそれは重荷でしかないのだろう

 

それはつまるところ

自分の存在に自ら期待をかけられるのか

という一点に集約されるのだろうし

 

それは表面的には全く以って看破し得ない内奥の真理であろう.

 

 自らの存在そのものに期待をかけているかどうかは

その人が一見前向きであるとか後ろ向きであるとか

自己評価が高いとか低いとか

 

そんなものはまるで関係がなく

 

ただ獲得と喪失に慈しみを持ち得るかという

本人の自意識次第であるから

ラクティカルな都合は一寸とて生まれない.

 

 

それにもかかわらず

自分は自分の存在自体になにひとつ価値を置いていないのかもしれないという実感は

 

どこか心に纏わりつくものがあるから

僕は何を言いつつも

その疑問と付き合っていくことになるのだろう.

 

こうして言葉に記したことで

何かが変わるとは思っていない

 

しかしこれを書いたことすら忘れたころ

きっとまた同じことを書いているに違いない.

 

それは確かだ.

 

f:id:haruki-morikawa:20201021203905j:image