フラット

そろそろゴールデンウィークが始まる

その前に4月が終わる

 

人生において最も特異なゴールデンウィークだろう

 

 

昨年のゴールデンウィーク

実家でペン習字のテキストとともに過ごしていたのを覚えている

 

 

今年はSwift Playgroundかな

 

しかし実家には帰れそうにない.

 

 

 

人の幸せについて考えてみる

(今ふと思い浮かんだテーマだ)

 

こうして大学4年目を迎え

生活の90%以上をひとり味気ないフラットで過ごしていて(フラット, そう呼ぶと味わい深さが少し増す)

幸せを感じる瞬間というのは数えるほどもない

 

 

勿論それは一般論ではない

 

相変わらず白いビニールクロスの天井を見上げて

僕の近頃の生活をざっと振り返ってみたときに

幸せと呼べるものを何ひとつ捕まえられなかったという話である.

 

 

しかしながら

幸せは相対的なものであって

この惨禍に日夜戦い続けている方々にとっては

僕のこの平穏無垢な生活は

もしかすると幸せな状態と映るかもしれない.

 

 

Before コロナの世界にあって

僕は何をどう幸せと捉えていたのだろうか

 

それは意外と思い出すことが難しい

 

もしかしたら

何が幸せであるのかなどという考え事を

久しくしたことがなかったのかもしれない.

 

 

 

ただ少なくとも

 

多くの人が

今この瞬間にも

幸せの内容を変化させつつあるだろう.

 

 

授業の大半を

うとうとしながら過ごしていた僕ら学生たちは

学校に通い仲間と学ぶ幸せを知った.

 

きっと先生たちも

慣れないオンライン授業に苦心しながら

机に突っ伏す生徒たちを

どこか懐かしんでくれているに違いない

(勿論誰に確認したわけでもない).

 

 

今この瞬間と比較して

自由や交流や可能性や期待や希望

それらに満ち溢れていたように思える過去の日常は

いつのまにか切望の対象になっている.

 

 

"当たり前だった日常がかけがえのない幸せであった"

使い古されたフレーズだろう

何か災厄に見舞われるたびに

人はそうやって嘆息する

 

 

大事においてのみならず

全ての瞬間において

人は失い始めているということを

実感するのは難しい

 

 

この象徴的な状態の中でこそ

人々はそれを実感し

共感を形作ることができるのだ.

 

 

そうやって作り上げられてきた

"ありふれた日常の幸せ"

という群像

 

そのノスタルジックなイデオロギーの中に

僕も漏れなく含まれている.

 

 

何週間か前に読んでいた

貞観政要

を思い出す

 

そこで示されていた東洋的な理想の生き方

 

 

足ることを知るとは果たして何か

 

ありふれた日常に幸せを見出すことが

足ることを知るということなのであろうか.

 

 

なんだかそうではないように思える

 

 

人の幸せとは

最初に立てた問い

 

ここに戻るのはやめよう

 

 

僕にとっての幸せとは.

 

ここまで何事かを書き連ねてきたけれど

この数週間で

僕の幸せ観は大きく変容しているようでもあり

実際そんなに変わってはいないのではないだろうか

 

変化したのは切望の対象であって

絶対的な幸せの定義ではない

 

幸せとは感情なのだろうか?

或いは状態なのだろうか?

 

この2つの間の違いとは何だろう?

 

 

少なくとも僕は

誰もが見えないウイルスに怯える必要がなくなり

僕自身が大っぴらにこのフラットの外に飛び出すことが誰の目にも自然であるような状態において

(勿論この部屋をフラットと呼ぶ行為もまた自然であるような状態において)

教室の中で授業を受けたり

休日に友人とフットサルをしたり

イギリスに旅行してホームズやクリスティやハリーポッターの世界観に触れることができたりしたならば

大いに1日を満足して過ごすのだろう.

 

 

それを幸せと呼ぶことができるのかは

考えすぎてよくわからなくってきたけれど

 

その日の日記にたった一言

"とても幸せな1日だった"と添えることによって

僕はその日々を幸せなものとして記憶することになるだろう.

 

 

その日の過ごし方に悔いがなく

ポジティブな感情で1日を終えることができたとしたら

その1文を添える決意が湧いてくるのではないかと思う.

 

 

 

フラット:

なんだか無機質で淡白でこじんまりした印象を起こさせる

 

当たり障りない平凡な僕の下宿のこの一室に

味気ないセンチメンタルな雰囲気を漂わせてくれる

 

 

幸せとはやはり感情的な意味合いを持つ概念であって

きっと僕がこの毎日に対して感じている喪失感のようなものは

感情的瞬間の欠落に起因するものが大きいのではないだろうか

 

 

人はそうやってフラットを求めるものなのではないだろうか

 

 

変わってしまったこの現実に対して

失い続ける僕らにできることがあるとすれば

今この瞬間に感じるひとつひとつの感情を拾い上げ

そしてその感情の先にある対象もまた

かき集めて留めておくこと

 

まるで川辺の石ころを次々と拾い集める子供たちのように

今ここに感じている思いを腕いっぱいに蓄えて

社会的解放を迎えたその時に

自分だけの芸術作品を組み上げること.

 

 

 

それがきっと 

現在そして未来における

幸せにつながるはずなのだ. 

 

 

f:id:haruki-morikawa:20200428231251j:image