萌芽

どんな世の中にしたいのか

それを心に持っておくことが大切だ  

 

近頃思う.

 

 

 

 

今日は全く休日的な過ごし方をしていた.

本を読み、家を片付け、トレーニングして.

 

冒頭の思いは

この時世にイデオロギーや思想の分断が明るみになってきていることや

本や漫画を読む時間が増えたことによるところが大きいのだが

 

今日

この1年間積み重ねてきた思考整理ノートを発見し

夜にオンライン哲学カフェに参加してみて

さらに強くなった.

 

 

ウィズコロナやアフターコロナの世界が説かれている.

 

ビジネスモデルの変化

DXの急激な進行

働き方の変化

地方の活性化

人との関わり方の変化

 

様々な議論があって

有識者然とした人たちが考えを発信し続けている.

 

 

そんな議論を聞いていて

言論は理解しながらも

違和感がずっと付き纏っていた.

 

 

そこに欠落していたものはきっとこの問いだ

"では自分はどんな世の中を望むのだろう" 

 

 

誰も彼もが不安に苛まれ追いつき対処することに躍起になっている.

 

ただそれは今に始まったことではなくて

スピードと危機感が段違いであるというだけであるように思うが.

 

 

哲学カフェでなるほどなと思ったこと:

自由とは因果律に囚われないこと

 

 

これから来る未来をやってくるものとして身構えることと

デザインしていくものとして捉えることとの間には

哲学的に言えば

自由の有無が存在しているということだ.

 

 

僕は別に

今すぐこの危機に対して世界をこうして引っ張っていくんだというような

大きな行動と決意を自分に求めたいわけではない.

 

ただ今この時節柄

ことが大きくフォーカスされているというだけ.

 

 

思うのは

人がそれぞれ内側に

「こんな世の中は素敵だと思うんだ」

 

そんな願いを持っていることは

ひとつひとつの決断や行動に対して

なんらかの意義や所謂自由を付与するであろうということ.

 

 

人生、生きようと思えば幾らでも消費し続けて生きられる.

人は常に失い続けているものだから.

 

しかしただ降りかかる物事を受け止めて

自由なく過ごすだけの日々を

あと60年も過ごすことは

遣る瀬無いだろうなあとわかる.

 

 

それは全く失い続けるだけの人生になってしまうだろう.

 

足を止めて

自分の頭で"自由"に考える

自分が生きたい自分と

自分が生きたい世の中について.

 

 

これまでの3年間

それを一緒に考えてくれる仲間たちに恵まれていたものだと思う.

 

しかし人間は飽くことなく

無思考に生き続けることができる.

 

 

気がつけばいつのまにか理想を失っていることもある.

 

そして失ったものは取り戻すことはできない.

 

 

もう一度自分の頭で"自由"に考えることを

よくよく忘れず過ごすことにしよう.

 

 

ニュースを聞いてスレッドを見て

人それぞれの主張を理解して

 

そのときに

“自分はそれを望むのか"

先ずは投げかけてみる.

 

 

それが最初の一歩であり

自由に生きることに繋がるだろうと思うのだ.

 

 

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