気取り屋の文章みたいに拙い僕の生き方

近日、自分について語る機会があるため、

 

自分についてまとめていた。

 

 

何をして生きているのか。

なぜそのような取り組みをするようになったのか。

 

 

どのように生きたいのか。

それはどんな思想に基づいているのか。

 

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「人は常に失い始めている。」

 

いつもこれが始まりの問い。

 

 

 

どれだけ真っ当に、普通の人生を歩んでいたとしても、

人はまるで穴の空いた籠のようなもの。

 

 

 

常に何かがこぼれ落ちている。

 

 

 

得るより失うことの方が大きくなれば、

人は病み、苦しむ。

 

 

それでも、前に進むこと。

 

常に失い始めている、

だからこそ、

得続けようとすること.

今を面白おかしく生きること.

 

そのために、

自らが最大の価値を発揮できるときに、

頑張りきること。

 

自分に対しても、他者に対しても。

最大の価値を発揮できるときに。

 

 

 

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ネパールに行くと決めた時、

僕の頭の中にあったのは、

全くもって身勝手な社会課題解決欲求だった。

 

 

人生で経験したことのないような、

大きな課題に挑戦する中で、悪戦苦闘しようと、

そんなことを妄想していた。

 

 

実際に出会った子供たちの笑顔を見て、

僕は自分が如何に愚かだったかを知った。

 

自分の勝手で相手を不幸と決めつけていた。

 

そんな僕の描いていた活動は、

誰にも求められておらず、

頭の中に不幸を創り出し、

作り出せるはずの笑顔を生み出すチャンスを奪い去っていた。

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最大の価値を発揮できるときに、

頑張りきること。

 

 

何を以ってして、

自分は最大価値を発揮していると言えるのだろうか、

と考えていた。

 

 

自分がただ好きなことをしていても、

自分がただすべきと思ったことをしていても、

自分がただできることをしていても、

到底届かない。

 

 

求められていることに答えてこそ。

 

自分がやりたいと思うことであり、

かつ自分に求められていることに励んでいること。

 

いわば、

"僕だからこそ、増やせる喜びを創り出す"

ということ。

 

 

 

人は常に失い始めている生き物だから、

僕だからこそ、増やせる喜びを創り出すために、

自分を最大限に発揮できる時に頑張り、

一瞬一瞬を面白おかしく生きる。

 

 

 

僕の人生への態度.

 

 

 

 

我ながら、とてもひどい文章だ。

とても醜く凸凹で、曖昧だ。

まだまだ僕は、問い続けていく必要があるのだ.

生き方について。