to be opened

こんばんは、森川です。

 

舞洲に旅行中です。

 

健康的に眠いです。

 

過去に書き溜めて、流さなかったものを今日のブログとして流します。

 

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・仮説検証について。

仮説検証ってどういうことなのか、最近ようやくわかってきた気がする。今まではなんとなく仮説検証って言葉を使っていたけど、その本質を感覚的に捉えきれていなかったなと。つまり、仮説検証っていう言葉だけが先行していたのが自分なのかなあ、と思っています。

 

ただ、最近感覚が掴めてきた。

結局、

これ、もしかしてこの課題解決できちゃうんじゃね??

しかもこれやってみたら絶対めっちゃおもろいやん、

って思えたらそれが仮説検証なのでは。

 

だから

ちゃんと課題を出すことに妥協しないこと、

ワクワクするやり方を選ぶこと

ちょっと驚かれそうだなーってものを選ぶこと

 

これが大事だと思う。

 

そういやおんなじこと”アイデアメーカー”に書いてあった気がする。

 

この感覚をもちながら活動したい。

 

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・ノートの話

僕にとって考えるという行為は、ノートに書くことによって達成されるようです。

だから、どれほど頭をひねっているとしても、ノートやそのほか何かしらの媒体に手で書いていない時は、それは思考しているとは言えない。

 

これまでの人生で、気が付いた頃から勉強する時はただひたすら書きなぐるという勉強法をとってきた。今は無事大学に通えているわけだけど、テスト前とかには、めちゃくちゃノートを浪費してきた。

 

僕にとって考えをまとめながら思考するツールは紙とペンなんだなと思います。

 

僕がノートも使わずに考えている風だったら、周りの人には

「それ何も考えていないのと一緒だよ」

って声かけて欲しい。

 

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・文学と理想の世界観について

 

自分の中の理想。

 

人が自分自身を受け入れていて、自分が可能性を感じている道を歩んでいること。

そしてそれが尊重され、認められていること。

 

 

自分は何を目指して生きるべきなのかということを悩み、どんな世界を目指していきたいのか考えては答えを出しあぐねてきた。

一度答えを見つけたと思っては再編し続けてきた。

そして現在持っている自分の価値観がこれです。

 

 

その中で、この前たどり着いたのが、

児童文学の世界って最高じゃん

ということ

 

もちろん僕の中の児童文学のイメージが多分に偏見として含まれてはいるが。

 

 

そこではひとりひとりにキャラクターがあって、それを発揮することが、(もちろん小説の中の世界では批判者がいるものの)その人の役割として認められている。

主人公の批判者だって、その批判的立ち位置こそがその人にとってのその世界の中での自分のアイデンティティであり、その人が主人公を否定しているという、主義の背反はあるものの、その人が批判者という立場をとっていること自体を否定する人はいない。

 

 

例えば、ハリーポッターにはハリーポッターアイデンティティがある。

本人の心中では自分はどんな存在なのかと悩んではいるものの、でも彼がそのハリーポッターたること、そして主人公として存在していることは揺るがない。

 

ヴォルデモートだって、ハリーポッターの批判者として批判される立場にいるけれども、ヴォルデモートが批判者であること自体は否定されることはない。

 

ハリーもヴォルデモートも、自分がそうあることによって最大限の可能性を発揮できる自分というものを世界の役割の中で持っている。

 

 

 

1人1人が、その認識を自分に対して確固たるものとして持つことができたのなら、自分の理想にぐんと近づくのではないか。

 

 

児童文学の世界の中にこそ、自分の理想の源泉だとか、自分が憧れている世界観のエッセンスだとかが、含まれているのではないかと思った。

 

 

 

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