こんばんは、森川です。
長らくキーワードを"こだわり"と置いている今日この頃。
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こだわろう、こだわろうって自分に問いかけることが日常化した(自然とその想いが頭の中に浮かんでくるようになった)中で、やっぱりこだわるのは難しい。
どうしても心が乗らないときはやっぱりたくさんある。
心を載せたいものに対してだって、そう簡単にこだわれるとは限らない。
こだわることが、責任や、深い強さや、意思の表れなのだと思い、自分に足らないものだと最近テーマに掲げている。
ただ今日ふと思ったのは、自分はこだわれる範囲が狭いだけなのかもしれない。
・自分が絶対に正しいと思っていて、人に反対されたとき
・自分が決めた/自分が割り当てられている役割に反対する人がいたとき
・上2つを強めるのは、自分の信頼できる人に自分の意見が肯定されているとき
こういう時は、何か意地になってしまう。
自分の意見を変えない。
もちろん当然そうあるべきシチュエーションの数々で、だいたい人ってそういう状況ではこだわるし、もっと他のレベルでの場合分けが必要だよと思われるかもしれないけど、
こだわりがない分けじゃなくて、こだわりをこだわりたい部分で実感できていないだけな気がした。
革命を否定して、既存の価値観を死守しようとし、新しい価値観を否定したRestrationの時代の人たちと、自分の価値観は似ているのかも。
革命に怯える王様
この自分を脱して、新しい挑戦、新しい価値観を受け入れ、楽しみ、身軽に生きることは自分に望ましいのだろうか。
それはわからない。
体験したことがないから。
そうだな、
"身軽じゃない"
って肯定文でいうとどのように表現するのかはわからないけれど、
この言葉は結構的を射ていると思った。
半端に成果を出してきたり、人に認められてきたりした分、
自分は捨てるに捨てられないものをいっぱい自分のうちに抱えているんだろう。
きっと、この自己認知像に共感してくれる同世代の人たちは多いのではないかな、
ってちょっと思った。