例え踵が痛んでも

ひとり旅の2日目

今日はひたすら初上陸の岡山を歩き回った

 

今やふくらはぎが張っていて、踵が誰かに握りつぶされているかのように痛む

iPhoneの運動記録を見るとどうやらハーフマラソン以上の距離を歩いていたようで、ただ歩いていただけだとしても、これでは流石に疲れ果てても仕方がない

 

しかしおかげで岡山県内のあちこちを周り、行ってみたかった場所を全て回り切ることができた

 

ひとり旅とすればこんなものだろう。

 

たくさん歩いたと同時に、電車移動も長い1日だったから、ゆったりと本を読むこともできた

 

読んでいたのは『海辺のカフカ

もう何度目になるのかわからないくらい読んでいるけど、四国を目指して旅をするなら、読み返さない訳にはいかない。

 

この作品の中で、大島さんという登場人物が、自由について述べている一節がある

 

要約すれば、人は自由を求めていると言いながら、実際のところ不自由が大好きなのだということ

そして人は個人に不自由を課すことでこそ、社会を発展させてきたのだということ。

 

 

その意見はとても僕の腑に落ちる

 

何でもできる、何にもしなくていい、そんな状況では何事も前に進めることはできなくて、鳥籠に囚われているのと変わりない

 

一方で外的な縛りを科されているのなら、数パターンの選択肢からひとつを選び取ることは易しい。

 

 

しかし自由とは何だろう

人が求めていると思っている自由とは何だろう

 

例えば、

お金や仕事、他者に縛られることなく、100%自分の意思で自分の時間を使えることだろうか

 

でもそれは、人の下で仕事をしたくないという気持ちの表れでしかないような気もする

 

それは本当に自由だろうか、求めるに値するものなのだろうか

 

本当に全く純粋無垢の自由に放り込まれたとしたら、自分は一体何ができるだろう

あるいは何ができないのだろう。

 

 

実際のところ、完全無欠の自由ではなくとも、人生の各局面局面で、コンテナ化された自由を経験することが何度かある

 

そうした時に、足が止まってしまわないようにするために、自分には何ができるのか

 

自らを律することを通じて、仮想的な柵を身の回りに建設することができるのか

 

明確な目的意識を持ち、何処かに向かい始めてみることでしか、自由のコンテナの中の自分を稼働させることはできないだろう

 

ただ注意深く、何処かに向ける歩みを止めては行けない

ふくらはぎが張っていても、踵がズキズキと痛んでいても。