読み手の創造

東京逗留折り返しの今日

 

結局本を買ってカフェを探し

ただゆったり読書に耽るという

いつもと変わらない1日を過ごしていた.

 

 

ただ歩いている量は

大阪にいる時とは比べものにならないくらい増えていて

いつもと違う景色を

楽しめていることも確かだ.

 

 

 

さて

小説を読んでいるときの体験の話.

 

特定の種類の小説を読んでいる時に陥る

ある特定の気分が存在する

 

この作家だからとか

このカテゴリーだからとか

この題材だからとか

 

そんなことは決してなく

 

ただ物語世界に浸っている間に

この小説がその類のものであることを認識することになる.

 

それはいつもの自分を代替の自分に置き換える

 

頭に浮かんでくる物事が

発したくなる言葉が

選びたくなる選択が

 

普段には想起できないものに変わる.

 

 

そういった類の小説は

読んでいる間にどことなく

世界を夕暮れの薄暗さに染めていく明るさを宿しており

まるで

どこか地下のバーにでも座っているかのような気持ちになってくる.

 

 

その現象について

これまでは

特定の類の小説が同じ系統の物語を保有しているのだと解釈していたけれど

 

あまりに多様な作者作品を鑑賞する中で

そうした自分に出会うことに気がつくと

 

その物語世界は

 

それぞれの物語に決定的に宿っているものではなく

 

自分が読み手として

物語世界に関与した結果であり

 

読み手としての自分の立ち位置と

その自分がいるべき世界観

その自分があるべき人物像を

自らの望むように解釈創造している行為の産物なのではないかという考えに至った.

 

 

そうした読み手としての自己創造行為が

果たして万人の共通感覚なのかはわからないけれど

 

読むという行為に創造性の余地があるとすれば

それは解釈行為に限られるものではなく

自己創造を含めたメタ的世界観の演出も

その余白に含まれるのだろうと思う.

 

 

f:id:haruki-morikawa:20201115205011j:image