謙虚の因子

昨日と今朝と、

東京に出てきたこともあり、

普段中々会う機会のない人たちと話していた。

 

いつもと違う話をする

いつもと違う考え方をする

 

いろんな人と関わることは、やはり面白い。

 

 

自分の無思考領域の広さが身に染みた。

目の前のことに対して、

先の見えないながらも、がむしゃらに取り組んでいる現在。

 

自分が自分について考える時、

自分に見えている景色は、とても限定されたものであるのかもしれない。

 

 

ひとそれぞれに幸せのかたちがあり、喜びの元がある。

 

今自分が足を踏み入れているフィールドを離れた時、

如何に話せることが少ないか。

 

出来ないことが如何に多いか。

 

人と話すことを、面倒だと避けてきて、

しかしいざ、目の前の人のために話しをしたいと思うと、一歩が出ない。

 

もどかしい。

 

出来ないことにもどかしさを与えてくれる人との出会いは貴重だ。

同時に、僕はもっと、学び、行動し、身につけなければならない。

 

それができるように頑張りたいと思った。

 

 

 

また、

話している中で、昨日も今朝も言われたのは、

謙虚だということ。

 

自分のしていることを過度に誇ることなく

伝えているようだった。

 

 

君は謙虚だねって言われて、

じゃあ謙虚なんだって意識してみたところで、

何が変わるでもなければ、何に役立つこともないように思えるけど、

なぜそう感じさせるのかは考えてみたかった。

 

 

今の自分が大したことをしている感覚は一切ない。

目の前のことに向き合って、取り組んで、自分にしか創り出せない喜びのために、とは思うけど

実践できている感覚もなければ、

ましてや到底他人に誇れる自分でなどない。

 

 

結局何も創り出せていない。

何か価値あることをしているかと言われると、生み出していないのだから0だ。

 

 

そんな感覚がずっとある。

それは自己嫌悪でもあり、自己否定でもある。

自己を肯定する意識を高められない要因である。

 

 

面倒くさがりで、

思想だけが先行して、

何一つ創り出せてはいない

 

それでも、

自分から何を動かしているでもないけど、

出会いにはとても恵まれている。

 

偶然出会って、僕を引き入れてくれる人たちは、

多くの物を与えてくれて、

大凡他者から見ると、中々臨めない程の環境に居ることができている。

 

もし僕が他人だとしたら、羨ましいとさえ思うかもしれない。

 

 

自分が何か大層なことをしているわけでは決してない。

ただ、自分は属している環境に恵まれている。

 

それが他の人たちから見ると、

漠然と凄いなって思われるのかな。

 

 

でも僕は、それに見合っていない自分を知っていて、

見合わないことから目を背けてしまうこともある。

 

誇れることなんてまだ何ひとつないのだ。

 

 

このままではただの鼠

まだまだ。

 

 

充たされない思いを抱いていて

その思いに恐れて居る自分なのだから

 

例えのろのろとでも、

前に進んでいきたい。

 

 

まずは行動すること。

 

最初から100%など必要ないから、

取り敢えず行動できるだけの用意はして、

あとは走ってみよう。

 

 

20歳、まだそれで許して貰えるでしょう。

 

 

勝負だよ

 

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