背骨

最近は雨の日がずっと続いている

空気が乾燥し切っていた長い冬を超えて、ようやく新しい季節を迎えつつあるのかもしれない

 

この雨が土壌に潤いを与え、草木の芽吹きを助ける

柔らかくなった地面を突き破った動物たちが新しい1年を始めるのも、そう遠い話ではないだろう

 

しかしながら人間である僕は、薄暗く白い空を窓から眺めながら、ただ時間の使い方に思い悩んでいる.

 

 

雨の日々は今まで何となくやりたくてもやれてこなかったことをしてみたいと思う

 

例えば数学を勉強してみたり、昔読んだ小説を読み返してみたり、ストレッチの時間を作ってみたり

 

あまりベクトルに拘らず、たくさんのことを散発的に取り組んでみる

ただそれらの内、何ヶ月経っても興味を持ち続けているようなものなど僅かばかりしかない

 

好きなものはいずれ変わるから、好きなものを仕事にするべきではないと誰かが言っていたけど、それは言えているかもしれない

 

でも子供の頃からずっと今でも好きであり続けているものもある

 

サッカーはずっと好きだ

幼稚園でサッカークラブに入ってから、20年近くサッカーに対する興味だけは失ったことがない

 

例え大きな成功を収めたわけでもなく、人より優れた選手であったわけでもなく、部活自体を振り返れば、思い出したくない思い出ばかり浮かんでくるにも関わらず

 

今もサッカーを見続けているし、今もフットサルをプレーしている.

 

そんな人生を共に生きてきた趣味は、ずっと大切にしていきたいものだ

 

時にはそれが思いがけないつながりを運んできてくれることもある

 

少なくともそれがあれば、人生に楽しむものを見つけることができる.

 

 

感情を抑えなければならないことばかりの日々だけど、心に火を灯し続ける、時に落胆し塞ぎ込み、時に飛び上がり喝采する毎日のために、好きなものにかける時間を惜しまないでいたい.

 

エージェント

ChatGPTなら発表から約1年、生成AIの発展速度は指数関数的に伸びており、世の中の関心を集め続けている

 

僕もひとりの社会人として、人並みに関心は持っていて、学び使う意識はあるつもりではあるが、全く情報を追いきれていない

 

ライフスタイルや仕事内容に依るところも大きいのだろうが、客観的に観ても、生成AIを日常に取り入れられるほど使いこなせていないのが現状である。

 

 

そんな状況ではあるが、1冊の本を読んだことで、昨日から、AIエージェントというテクノロジーの可能性に対して、大いに胸を膨らませている

 

僕がAIエージェントという概念に初めて触れたのは、数ヶ月前にLangChainの基本的な実装を試してみた時だ

 

それまではLangChainについて、生成AIツールと各種ソフトウェアの結合インターフェースとしての認識しか持っていなかったのだが、この仕組みを実装してみる中で、AIにエージェントとしての働き、つまりユーザーから投げられたタスクをAI自身が工数分解し、プランを立て、それに従って行動するという技術が確立されていることに驚いた

 

これはもはやSF映画に出てくるAIアシスタントそのものではないかと

そしてそんなことができるのならば、もはや人間の働きと遜色ないではないかと。

 

今回改めてある程度体系的にAIエージェントという概念と仕組みを学習してみて、うまく活用することができれば、想像力の働く限り色んなことができるではないかと感じた

 

なんとなく抱いていた期待に具体性が付与された

 

自分の生活に新たな次元としてバーチャル空間が加わり、生活空間にそれが占める割合が果てなく広がっていく

 

その次元から自分をサポートしてくれるアシスタントのような存在が生まれるということ

 

ワクワクしてしまう未来だ

 

雇用だとか、情報の信頼性だとか、大人たちは様々なリスクを喧伝しているけれど、きっと想像力をポジティブに働かせることができれば、大いに楽しい近未来を生きられるはず。

 

今回幸運にも2ヶ月ほど春休みを作れたので、個人プロジェクトとして、簡単なものでもいいから、何かしらデモを作ってみようかな

 

なんでもいい、手を動かして小さなものでも作り切ることで学べることがたくさんあるから、移動してフィジカル的な広がりを作ることとは別軸として、知的にも想像力を広げられるような期間にしたい。

 

 

また、今回想像を膨らませてワクワクできたのは、本を読んで新たな知識を入れたから

 

自分の想像力の広がりを楽しむためにも、知識を吸収する意識を持つこと

 

流れる時間を止めることはできず、そろそろいい大人となるべき年齢にもなってきたから、それだけは努々胸に刻み込む。

 

明確な目的意識

もう2024年になったと思っていたら、気がつくともう2月も半ば

高速道路の風景みたいに、意識とは無関係に時は通り過ぎていく。

 

新しい一年になり、それなりに抱負のようなものを並べてはみたものの、願うような1ヶ月と半分を過ごせてきたとは言えない

 

それどころか、世の中は厄に憑かれたようで、日本代表はアジア杯に敗れ、僕はコロナに罹って数年ぶりに長く体調を崩した

 

気がつけば2月も半ば

しかしながら今年は身の回りの環境が大きな く変化する見込みであり、いくつかの楽しみな予定も既に埋まり、新年に思い描いたように、前向きに暮らしていくことができる一年であるはず

 

変化の時を楽しめるように、季節外れではあるけれど、思うところを整理したい。

 

 

今年は春から新しい環境で新しい生活を始める

 

大学を出てから3年間、大阪の南に移り仕事をしてきたけれど、今が変化を選ぶべき時だと感じた

 

大学を出てからの3年間は、仕事が中心の生活になり、関わる人たちが限定され、最終的には人生の殆どの時間を自宅のワンルームで過ごしていた

 

コロナ後の社会情勢の後押しもあり、会社の方針があり、そして何より自分の性格的傾向があった

 

勉強することに時間を費やしてみたり、ジムで体を鍛えたり、或いは電車で一人旅をしてみたり

しかしその時を誤魔化すことができたとしても、生きる原動力を得ることにはつながらない

 

人生において価値があるのは、移動と人との出会いであるはずなのに、結局はむしろ自らの世界を自らの手で狭めてしまっていた。

 

コロナに罹り、家に篭りきりだったこの2週間ほどで感じたのは、ただただ暇であるということ

 

体調が優れずやれる事が限定されてみると、自分がどのように日々時間をやり過ごしているのか、全くわからなくなった

 

仕事をする、本を読む、勉強する、他に自分は何に時間を使っていたのだろう

 

時間の使い方を思いつけず、体を休めるために9時間以上も眠る日々だった。

 

 

この1週間、この1年間を見返してみて感じるのは、目的意識が欠如しているということ

 

ギラギラしたような成長意欲や、難題に取り組むためのチャレンジ精神のようなものを、日々に見出す事ができなくなっている

 

3年前は毎日新しい問題にぶつかっていたはずの職業生活は、良くも悪くも物事があまりに定型化してしまっている

 

思えば、この数年ジムに通い、体づくりや食事を気にかけてきたのは、このやり場のない目的意識を何かに見出したかったからなのかもしれない

 

仕事である必要はない

ただ明確な目的意識を向ける何か、1日を通して意識を向け続ける必要がある何かの存在が人生の拠り所になることを感じていたのだろう

 

しかし僕は、体づくりに2年以上も目的意識を向け続ける事ができなかった

それは定型化され、今ではただの習慣となった

 

それ自体は喜ばしいことなのだろうが、トレーニングはもはや人生の拠り所ではなく、自らの意思で目的と設定し直すことができないものになってしまった感覚がある。

 

 

 

今日1日を生きる上で必要なのは、明確な目的意識を持つこと

 

明確な目的意識なくして、未来の成長も今日の充足も得られない

 

それが今の僕に必要なもの

内発的なものでも外発的なものでも構わない

 

そして、そのためには環境を変える事が1番だ

移動して、新たな人々と出会うことを通じて、それが得られるはず

少なくとも、この移動が何かの触媒として作用するはずだから、自ら目的を掴みにいくこと。

 

 

最近、村上春樹の『騎士団長殺し』を再読している

妻から離婚を切り出された絵描きの主人公と、谷の向かい側に住む謎の実業家の免色さん

 

人生の転期に、あるいは生涯をかけて、人は自分の人生の意味を思い悩むことになる

 

その時に自らを支えてくれるのが、明確な目的意識の有無なのだと、この小説を読みながら、最近の自分のもの思いを反芻している

 

人生の中で、その時々で、我々は目の前の目的に従って生きていく

振り返れば無駄なように思えることもあれば、後から思い返してみて、それが必要なプロセスだったと気がつけるような時間もある

 

ただ、自分の人生の中で、最も大切な目的とは何なのか、それをどこかでどうにかして見出していきたい

 

それは苦痛を伴うかもしれない、周りの人には理解されないかもしれない

けれど、それこそが人生の意味であり、慰めであり、幸せなのだから、考え続けていかなくてはならない。

 

 

そしてそのために必要なものこそが、移動であり、人との出会いだ

 

それから、そうして得られた経験を内省し、表現することを通じて、自分の意識と世界を構築していくこと。

 

 

 

今年は変化の1年になるはず

そんな大風呂敷を広げながらも、着実に、生きるに値する時間を生きたと思えるように日々を過ごしたい

 

新しい環境に移動し、人々と出会い、目的意識のもとに生活をすること

そうして積み重ねた経験を内省し、表現することを通じて、自らの世界を構築すること

 

酷く抽象的な文章だけれど、

日々を実際的に生きながら、稚拙でも概念的な思考をまとめることの重要性は、5年前に痛感している

 

だからこうして文章にする時間を面倒臭がらず、大雑把でも思考の軌跡を残すこと、

これも新年の抱負のひとつだ。

 

ぬぬぬ

6月の前半まで、不思議とイベント続きの予定となっていて、それがこの2年ほどの自分の生活のリズムに合わなくて、気持ちの盛り立て方がわからない。

 

雨の日が増えてきて、暑くて湿度も高い。日本の夏はもう目の前。けれど電車内はあまりにクーラーに冷えすぎていて、半袖だけで生活することを許してはくれない。

 

そんな日々には自分の気持ちと自分の体、自分の心と自分の体温が一致している気がしない。というよりも、それらが一致している感覚を得られたことなど、とても長い間ないように思う。

 

一貫した自己があってこそ、自己を認識することをできる。心と体の経験を通じて、自己を一致させていくこと。

電車読書ひとり旅

今日は久々に、何をしたら良いのかわからなくなった。

 

ただ、どこかで村上春樹さんの新作をがっつり時間とって読みたいなと思っていたことと、今月一度も県外に足を踏み入れてないという思いから、適当に電車に乗ってただ本を読むという電車読書ひとり旅を決行した。

 

とりあえず何県に向かうのかもわからない近鉄電車に乗ってみて、ただ本を読みながら、行き着く先に任せていたら、最終的に和歌山に居た。

 

片道2時間超え、ただ電車に乗って本を読んでいることだけが目的の旅。

 

特にどこかに降りたわけでもなく、たまに山の景色を楽しみながら、一心に村上ワールドに没頭していた。

 

電車の中というのは、何故か読書が捗る。もちろん車内が空いていることが前提なのだが。

 

ガタガタと揺られながら、ただ小説の世界に没頭するというのは、とても贅沢な1人時間の楽しみ方なのではないかと確信を持った1日だった。

 

電車読書ひとり旅、定期的にやってみよう。

 

 

 

躊躇

10月も終わりに近づいて

ようやく寒くなってきた

 

無条件に歓迎できるようなことではないけれど

とにかく季節が巡っていることがわかる.

 

この10月は

今までとは若干違うことに時間を使うようになってきた

 

自分の現在地を知りたくなって

色々な人やサービスに話を聞いてみたりして

なんとなくそれはわかってきたように思う

 

対して自分の今いる環境を見つめ直した時に

何かしらの変化を起こさなければならない

そんな気持ちにもなった

 

だからこそ

色々とキャリアについて考えたり

情報を収集したり

申し込みをしたりして

 

いつのまにか

その活動に大きな時間を割いていることになった.

 

 

同時に今月

数年ぶりにハリーポッターを読み直していて

 

23歳となった自分に

この物語はこんなにも突き刺さるのかと

大変な発見があった.

 

 

人に愛され

勇気を持って

スペクタクルな経験を乗り越えるファンタジーの登場人物たち

 

彼らをみていると

自分の人生があまりに無意味なものであり

自分がしがみついているものに

そんな価値はないと思わされる.

 

仕事の内容や

自分のいる環境

 

そんなものは外面的なものでしかない

 

生きる上で大切なのは

心や感情を発散し共有することであると.

 

 

自分が心を込めて取り組める何か

自分が在らん限りの感情をぶつけられる何か

 

人と人との繋がりの中で

そうしたものを手に入れていかないと

 

 

そのためには

外面的な柵を捨てて

自分の心に正直に

 

自分の心の向くままに生活していくこと

 

つまるところ

心が傾いたものに躊躇しないこと

 

 

どこに住むのか何をするのか

そんなものは些細なことでしかない

 

そしてら些細なことだからこそ

とにもかくにも

さっさと行動してしまうに限る.

 

 

適切な孤独感

今日は久々に

当てのないぶらりひとり電車旅をした

 

乗ったことのない電車に乗って

何となく良さげに思った駅で降りてみる

 

大概は何をするでもない

駅の周りを散歩したり

カフェに入って本を読んだり

 

以前はよくやったものだったけれど

毎度何を為すでもなく

ただ結論なく過ごす時間を

無意味に感じてしまうこともしばしば

 

 

引っ越しをしてからは

便利ゆえ

何となく家の周りで世界が完結するようになってしまって

こんな風にちょっと遠出もすることも

殆どなくなってしまっていた.

 

 

それでいて

変わり映えのない風景に

飽き飽きしていたのは不思議だ

 

何だか何かに縛られてしまっていたかのよう.

 

 

昼間の河川敷はまだまだ暑かった

歩いているだけで汗が止まらない

 

だけど夕方になってみると

半袖では寒いくらいの秋の空

 

空気も乾いてきたようだ.

 

 

こうして一人旅と称して

 

誰と触れ合うでもなく

ただ夕日を背に歩いていると

 

独特の懐かしい気持ちが湧いてくる

 

まるで世界には

自分の居場所なんてどこにもないかのような

 

寂しさであり悲しさ

 

これを孤独感と言うのだろう.

 

 

よくよく考えてみれば

普段の自分を取り巻く環境も

この見知らぬ地と対して相違ない

 

知り合いもおらず

確たる居場所もなく

ただ自宅があって長い時間居るというだけ

 

それでも一度慣れてしまえば

疑問を提示されているような

この孤独感は得られない.

 

 

久方ぶりに味わった

自分の属する場所など世界のどこにもないかのような孤独感は

 

それでも尚どこか気持ちよく

書き残しておかなければという気持ちを起こさせた.

 

 

芸術に必要なのは孤独感だと

言った人がいたはずだけれど

 

芸術如何に関わらず

適切な孤独を感じられることは

案外大切なことなのかもしれない

 

 

適切な孤独感はいつも

自分を省みる契機となるし

表現しなければならないという

脅迫的な観念を持ち込んでくる

 

 

だからこそ

うまく昇華する時間と手立てがある限り

それは敢えて否定するものではない.

 

 

同じところに居続けて

いつのまにか縛りつけられてしまうことのないように

ふらりと電車に乗ることを

たまの息抜きとしていよう.

 

 

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