小休止

ロンドンでの滞在も早いもので折り返し地点

今日は少し街を離れて、Oxfordまで行ってみようと思う

 

小学生の頃から夢見ていた物事が実現されていくこの数日は夢見心地でありながら、蓄積されていく写真や両脚に溜まる疲労感に現実を確認し、幸せな気持ちで日々を過ごしている

 

 

Sherlock Holmes MuseumやWembley Studium, Stamford Biridgeなどを訪れ、子供の頃の自分が見たら、全く羨ましがるような体験を重ねている

 

ロンドンの劇場でミュージカルを観たことは、大学生の頃からの念願だ。

 

 

これまでの自分の生活には、純粋に自分の興味関心趣味のために金と時間を使う習慣があまりなかった

 

しかしこうした時間の使い方は自分の心を満たしてくれる

より楽しく生きるための欲を呼び起こしてくれる

 

広範な移動と新しい経験を積み、残り半分をもっともっと面白おかしく過ごせるように、体調には気を遣いつつ、引き続き旅程を膨らませていこう。

可能性の範疇

日本を経ってから30時間以上

ようやくロンドンに辿り着いた

 

到着日には疲れてそのまま眠ってしまったけれど、今日は1日歩き回り、ロンドンの名所を散策した

 

Waterloo駅を降りて少し歩くと、眼前にBig Benが見えた

どうしたってニヤついてしまう位に幸福な気持ちに満たされた

ロンドンに来たのだ。

 

今日は所謂ロンドン観光の中心地を散策したわけだが、すごく素敵な街だった

ここに住みたいと思った

 

何処に行っても描いていたロンドンそのものの建物が林立していて、歴史と繁栄を感じさせる街並みが広がっている

 

何処を見ても写真に撮りたくなるくらい美しい

 

 

ただ建物ばかりでもなく、中心地にはSt. James ParkやHyde Parkの様な自然の植生に触れられる大きく広い公園があり、心をリフレッシュすることもできる

 

日本とは違い空間的に開けた公園だから、心も広く開放される

 

都市的な生活と伝統的な街並み、広い自然と各所を細かに結ぶ鉄道網

 

こんな所での生活に憧れる。

 

僕は既に5月以降の進路を決定してしまった訳だが、この旅行が先だったのであればきっと選択肢は違ったものになっていただろう

 

そして、人生で初めて金を稼ぎたいと思った

ロンドンに住めるくらいに、それから色々な国へ旅行できる様に

 

自分が思い描くことのできる可能性は、自分が得てきた経験からしか生まれないのだということを改めて確認させられた

 

実際にロンドンを訪れてみて、訪れることができる場所であることを知り、街並みに触れ、憧れを持った

 

自分の中で、ロンドン生活が具体性を伴う可能性の範疇に入った

 

だから欲が出た、そのために金を稼ぎたいと思った。

 

欲を抱くことは悪いことではない

寧ろそれが無ければ何ひとつ感動のない人生になってしまうだろう

 

ただ自分の近頃の時間を振り返ると、あまり具体的で大きな欲を持っていられたことがない

 

自分が興味を持っているか如何に関わらず、まずは移動し、新しい物事に触れ、経験を積むこと

そして可能性の範疇を広げること

 

そうやって欲を持って生活できれば、明確な目的のある日々を送ることができ、時間はより充実した楽しいものになるはず

 

面白おかしい人生を過ごすため、ひとつ心に留めておきたい。

深圳にて

海外旅行が始まった

今日は深圳に到着、空港で一夜を明かして明日ロンドンに立つ予定だ

 

近所の図書館でシャーロックホームズの本を読んだ小学生の時から、ずっと憧れていたロンドン

 

楽しみで仕方がない

計20時間近いフライトも、1つの達成課題でしかないように思えるほど。

 

 

思えば大学生になって以降、幾つもの国を訪れる幸運に恵まれてきたけれど、純粋にプライベートな旅行という目的で海外に行くのは初めてのことである

 

社会人になってから日本を出たのは漏れなく出張の目的であったし、学生の頃は語学留学やボランティアなど、何かしら仰々しいタイトルの付く渡航ばかりだった

 

だからこそ計画にはとても時間がかかったし、全ての物事がうまくいくことを願っている。

 

移動を通じて生息圏を広げ、人と出会い、感じたことを発信し、深く複雑に構造化された教養のある人になること

 

最近心がけたいと思っている生き方を簡単にまとめると、このようになるのではないかと思う

 

今は気にかかることを全て詰め込んだだけ、駄菓子のファミリーパックみたいな状態だけれど、これが今の自分が立ち戻るところである

 

今回の旅行は、この志を体現するかの様に過ごしたい

物理的な移動があり、出会う人は全て初めて出会う人になるはずだから。

 

 

出会う物事全てを楽しみながら、ひとつひとつの経験を自らの血肉とするような日々を。

我以外皆我師

4日間のひとり旅から帰ってきた

 

自宅の駅を降り、いつもの風景を目にして、とても長い間家を空けていたような気がした

たった4日間、2-3時間ほどで行き来できるような地域を旅行しただけだったのだが。

 

4日間が長いと感じたのは、睡眠時間が少なくて、そもそも物理的に経験した時間が長かったこともあるだろう

 

だけど何より、1日の中でたくさんのことをしようとして、数時間単位で風景が変わる日々を過ごせたことが、長い体感時間に繋がったに違いない。

 

今回たくさんの場所を周り、色々な風景を見た

都市、古都、農村、山頂、海辺とあらゆる地形を歩いた

地元グルメを食べ、歩き疲れると茶屋でぜんざいを食べた

 

春休みという時間の縛りのない生活を目一杯実感できるような日々だった。

 

ただひとつ後悔があるとすれば、それはたくさんの物事に対して、見切りをつけるのが早過ぎたのではないかということ

 

神社の山頂の拝殿に至っても、何をするでもなくそそくさと下山してしまったり、古い街並みの残る街道を訪れても特にすることを見つけられずに通り抜けてしまったり

来てはみたものの大したことをしていないケースが多々ある。

 

しかし最終日に美術館を訪れたとき、これはとても勿体無いことをしていたのだと気がついた

 

自分はいつも美術館に行くと、何となく全ての展示を見て回るのだけど、結局その行為に何の意味も見出すことができないでいる

 

ただ、今回はせっかくならと音声ガイドを付けて展示を廻ってみたら、いつも何をすればよくわからなかった美術館が、途端に学びの館になった。

 

 

そもそも旅をすることの目的は、移動しいつもと異なる風景、文化、人々に触れ合う中で、自らの価値観や知識の多様性を広げることにあるはず

 

ガイドマップになっているからと何となく名所を訪れ写真を撮るだけでは、その目的を果たすことはできない

 

そしてそもそも自分の興味に対して明確に行動をするのであれば、それは旅である必要もない。

 

結局のところ、旅をする上で大切なのは、そこで出会ったモノに対して、興味があるかどうかや、楽しめるかどうかといった直感的な判断ではなく、全てを学ぶ機会と捉えて、普段眼にしないような物事について考えてみる体験なのだ

 

心のバイアスを排除して、知識を深め、教養を広げる機会としてひとり旅を捉えることができれば、きっとそれは何より有意義な時間の使い方になるだろう

 

眼にする全ての物事は学ぶことができるモノであり、幅広い教養を身につけることこそが喜び

 

そんな心持ちで、まだ続く春休みを過ごしていきたいものだ。

 

 

香川の温泉

昨日は香川を巡った

四国初上陸、駅員さんに切符をスタンプしてもらわなければいけない駅が多くて、田舎を旅していることに気がつく

 

時刻表を調べること自体が久々だ。

 

この日も変わらず街を歩き続け、目の前の山を登り続けた

 

金刀毘羅宮というところは、まるでホグワーツ城の中を歩いているかのように、ひとつの拝殿に辿り着くたびに次々と更なる石段が現れた

 

頂上にたどり着いた時には、ふくらはぎも腰も痛くて仕方がなかった

 

特に登る目的があったわけではない

誰に報告するでもなく、御朱印やお守りを買うでもなく、ただ石段が続いているから、それを途中で止めてしまうのは忍びなかったというだけ

 

誰にも追い越されることなく、前を歩く人たちを追い抜き続けた

何を考えるでもなく。

 

 

3日間歩き続けてヘロヘロになっていたから、夜は温泉で疲れを癒すことにした

 

素敵な温泉に出会うことができ、心から脱力して湯に浸かっていた。

 

 

ひとりで温泉に入っている時、人々は一体何を思っているのだろう

 

たくさんの人たちが湯に浸かって虚な目をしながら、空を眺めていた中で、僕は特に何も考えていなかった

 

せっかく温泉に浸かり、誰にも邪魔されることのないひとりの時間を過ごしているのだから、ゆっくりと湯船で物想いに耽ることができたらと思ったものの、何ひとつ考えることを見つけられなかった

 

降ってくるもの、浮かんでくるものは何もなかった

 

今、自分には大した悩みはないのだと気がつく

 

学生の頃は、風呂に浸かっている時間や、散歩をしている時

考える対象が尽きることは決してなかった

 

取り組んでいる課外活動や明日の課題について

人間関係や自分自身の在り方について

生きることの意味について

 

それはまるで打ち捨てられた畑の雑草のように

或いは秋の落ち葉のように、

いくら取り出し書き込み保存することを繰り返しても、思い悩む種は永遠に現れるように思えた。

 

 

しかし今はどうだろう

1日20キロ以上を歩いていても、ひとりで田舎の温泉に浸かっていても、深く沈み込むような思索に浸ることはない

 

これから何を食おうかとか、腰を痛めないような歩き姿勢はどんなだろうとか、どこまでも表層の解決策のある問題ばかりが意識を支配して、創造的にモノを考えるということがない。

 

これが歳をとるということなのだろうか

或いは単に怠けて楽を選ぶようになってしまったのか

 

別に24時間365日物想いに沈んでいたいわけではない

10代の頃のように、訳もなく悩みに囚われる続けることを求める必要もない

 

ただ少しでも対極的に物事を捉えること、

自分の頭を使って、緻密で自由で高層的な塔を建てるみたいに物事を再構築することをしなければ、きっと翻弄されるだけで理解のない人生を送ることになってしまう

 

だからこそやはり、小説を読み、移動し続けなければならない

 

例え雨で靴がぐしょ濡れになっても。

 

 

 

例え踵が痛んでも

ひとり旅の2日目

今日はひたすら初上陸の岡山を歩き回った

 

今やふくらはぎが張っていて、踵が誰かに握りつぶされているかのように痛む

iPhoneの運動記録を見るとどうやらハーフマラソン以上の距離を歩いていたようで、ただ歩いていただけだとしても、これでは流石に疲れ果てても仕方がない

 

しかしおかげで岡山県内のあちこちを周り、行ってみたかった場所を全て回り切ることができた

 

ひとり旅とすればこんなものだろう。

 

たくさん歩いたと同時に、電車移動も長い1日だったから、ゆったりと本を読むこともできた

 

読んでいたのは『海辺のカフカ

もう何度目になるのかわからないくらい読んでいるけど、四国を目指して旅をするなら、読み返さない訳にはいかない。

 

この作品の中で、大島さんという登場人物が、自由について述べている一節がある

 

要約すれば、人は自由を求めていると言いながら、実際のところ不自由が大好きなのだということ

そして人は個人に不自由を課すことでこそ、社会を発展させてきたのだということ。

 

 

その意見はとても僕の腑に落ちる

 

何でもできる、何にもしなくていい、そんな状況では何事も前に進めることはできなくて、鳥籠に囚われているのと変わりない

 

一方で外的な縛りを科されているのなら、数パターンの選択肢からひとつを選び取ることは易しい。

 

 

しかし自由とは何だろう

人が求めていると思っている自由とは何だろう

 

例えば、

お金や仕事、他者に縛られることなく、100%自分の意思で自分の時間を使えることだろうか

 

でもそれは、人の下で仕事をしたくないという気持ちの表れでしかないような気もする

 

それは本当に自由だろうか、求めるに値するものなのだろうか

 

本当に全く純粋無垢の自由に放り込まれたとしたら、自分は一体何ができるだろう

あるいは何ができないのだろう。

 

 

実際のところ、完全無欠の自由ではなくとも、人生の各局面局面で、コンテナ化された自由を経験することが何度かある

 

そうした時に、足が止まってしまわないようにするために、自分には何ができるのか

 

自らを律することを通じて、仮想的な柵を身の回りに建設することができるのか

 

明確な目的意識を持ち、何処かに向かい始めてみることでしか、自由のコンテナの中の自分を稼働させることはできないだろう

 

ただ注意深く、何処かに向ける歩みを止めては行けない

ふくらはぎが張っていても、踵がズキズキと痛んでいても。

 

 

知ろうとすること

久しぶりに少し長めのひとり旅

今日から山陰地方を回っている

 

春休み最初のマイルストーンと位置付けていた検定試験も終わり、これで気負うものもない気楽な旅路

 

これまで来たことのなかった地域を巡りつつ、電車移動の時間も長いから、以前読んだ本を再びゆっくりと読み返す時間も持てそうだ

 

ここ数年は、あまりに部屋に篭りきりの日々を過ごしてきたから、この2ヶ月間だけは色んなところを歩き回って、時間の進み方を知り、この地球上にどのような人々がいるのかを確認したい。

 

ふとこの小旅行を計画してみて、大阪と四国が実はバスで2〜3時間ほどで行けてしまうほど近くにあることを知った

 

8年近く大阪に住んでいるはずなのに、そんなことに気がつきもせず四国と縁遠い生活を送っていたことを思うと、すごく勿体無いことをしたような気分になる

 

なぜもっと知ろうと思わなかったのだろう、と思うことは対象を人に限らずたくさんあるのだ

 

何年も住んでいた場所でも、いざ離れる段にならなければ知ろうともしなかったことがたくさんある

 

日常に浸り移動をイベントにしてしまうと、今いる場所や今いる人たちの価値に気がつくことができない

 

知ろうとすること、移動すること、そして興味を持つことを、少し大切にしてみたい

 

だが例えそれが遅くなってしまっても、知ろうと思えた瞬間があるならば、ただ行動してみるべきなのだ。