喪失

頭がずっしりと重い。

 

 

変な時間に眠ってしまった。

 

 

30分の睡眠が、こんなに体に堪えるなんて。

 

 

 

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昨日から、カズオ・イシグロの『忘れられた巨人』を読んでいる。

 

 

眠る前の読書時間に。

 

 

イシグロ作品を読むのは、これで2作品目だ。

(英米文学を専攻する学生としては、なかなか怠慢であると言える)

 

以前読んだのは、長編、『充たされざる者』(The Unconsoled)だ。

 

イシグロ作品にそこまで造詣が深いわけではないから、

一概には言えないのだが、

 

少なくともこの2作品には、ひとつ明確な類似点がある。

 

 

"Lost” & “Recall

 

登場人物たちは、なぜか記憶に問題を抱えており、たった昨日のことであったとしても、思い出せなかったりする。

 

記憶という歴史がない登場人物たちが、自己を見失いながら、流れるままに物事に巻き込まれていく。

 

対して、彼らには頻繁にRecallが起こる。

 

ふと"思い出す"という現象だ。

 

 

 

或いは街の風景を見て、

或いは思索に耽り、

或いは話しかけられたりして、

 

 

過去の記憶らしきものを、断片的に思い出していく。

 

 

それが本当の記憶なのか、

いっときのまやかしなのか、

全く明らかではない。

 

 

どちらにも、そのような不安定な自己を抱えた登場人物たちが登場するのである。

 

 

自己を物語る歴史がないということは、

自分という存在の一切の拠り所を失うということであり、

 

悩ませ苦しませるものであろう。

 

 

しかし、これは全く非現実的というわけではなく、

私たちの日常においても頻繁に、

起こっているのではないだろうか。

 

 

とても楽しい時間を過ごして、

心を許した相手がいたとする.

 

共に過ごす時間は何よりの幸せだと思う。

 

 

しかし、別れ、1日や2日が経つと、

段々と、思い出せなくなる。

 

相手がどのような表情をしていて、

どのような声をしていたのか。

 

自分がどれほど楽しみ、

どれほど心を広げていたのか。

 

 

いくら思い出そうとしたところで、

どうしたって掴むことができない。

 

 

思い出せず、悔やみ、自らを恨み、

悲しみに浸る。

 

 

 

自分が壮絶な体験をして、

大きな気づきを得て、

 

明日に踏み出す一歩を得たとする.

 

 

溢れんばかりの情熱と、

成し遂げたいVisionとが交錯し、

莫大なエネルギーが生まれる。

 

 

生きることに高揚する。

 

 

 

しかし、時が経てば、

それは自然捉えどころのないものと成り行き、

もはやどのように気持ちを持っていたのか、

全く以って表現できなくなる。

 

 

 

 

 

記憶は儚い.

 

 

視覚的な記憶

聴覚的な記憶

嗅覚的な、、、、、、、、

感情の記憶

心の記憶

 

 

人は失いながら生きている

 

どれほど大切にしたいものだとしても、

生きたその瞬間から、僕らはまた失い始めている

 

 

 

 

問い.

 

 

そんな人間として、どう生きたら良いのだ

 

 

 

拠り所になる思い出も、

エンジンとしての情熱も、

 

時が経つにつれ、

 

失われていくものであるとするならば.

 

 

 

誰かと共有すること

そして何度も同じところに戻り、何度も体験すること

 

それに尽きるのではないだろうか

 

 

だから綴る

 

そして、何度も何度も同じ間違いをして、

何度も何度も同じ過ちを犯して、

 

 

何度も何度も、大切にしたいその思いを、

ふとした瞬間に蘇らせる

 

 

昨夜、僕が持っていた強い思いも、

すでに消え始めている

 

僕はまた、失い始めている

 

 

拠り所をなくし、

暗闇に捨て置かれ、

何度も救いを求める.

 

 

 

 

大切なのは、

 

 

失うことを受け入れること

 

何度も繰り返すこと

 

無駄な抵抗だとしても、共有し、残そうとすること

 

 

 

そして、

 

Recallのその瞬間に、全ての全精力を注ぎ、自分自身の力を限界以上に費やすこと.

 

 

Recallのその瞬間を逃せば、

僕はまたその瞬間から失い始めることになる

 

 

 

失う前に、ひとつでも、物事を前に進めること

 

 

そうすれば、つぎにRecallしたその瞬間は、少しだけでも、前に進んでいるはずだから