星飾りのイデア

2019年8月は僕にとって、まるで実体を持たない日々だった。

 

 

ひとつひとつ数え上げると、

挑戦や経験は諸所に散らばっているのだけれど、

或いはその時々での思いや感情はたしかに存在していたはずだけれど、

 

 

2019年の8月という総体で捉えた時に、

それはまるで確たる枠組みを持たないのである。

 

 

ダイソーとキャンドゥの違いを問われた時、

きっと同じような気持ちになるに違いない。

 

100均性

 

 

 

イデアみたいなものだ。

 

 

 

イデアについて思う。

 

 

 

何かをするとき、仮にそれが関連する領域群を世界と呼ぶことにしよう。

 

 

Aをするとき、A世界にはA世界のイデアがある。

 

それはつまり、B世界にはB世界の、C世界にはC世界のイデアがあるということであり、

 

WZ世界にはWZ世界のイデアがあるということである。

 

 

もちろんここでいうイデアとは、究極の美であり物事の真理であるイデアのことを指しているわけではない。

 

 

いわば象徴としてのイデアである。

 

 

クリスマスツリーのてっぺんの星飾りみたいなものだ。

 

 

その星飾りのイデアが意味しているものとは、

その世界における究極美である。

 

何かをする世界には、その世界にイデアがある。

 

 

イデアは求められ、イデアは待ち受け、

イデアに到達するものは、その世界を愉しむ。

 

いや、これは正確ではない。

 

イデアを求めるものが、その世界を享受するのである。

 

 

そしてイデアを求められるようになるためには、複数のステップを踏む必要がある。

 

 

焼き鳥のイデア

 

人が焼き鳥を希求するとき、

始まりはきっとローソンのももを食べる経験である。

 

 

人は、ローソンのもも肉の焼き鳥を食べ、その時食べたxxxx年xx月xx日の焼き鳥のうまさを知る。

 

そこが焼き鳥のイデアへの入り口である。

 

 

繰り返しローソンのもも肉の焼き鳥を食べるうちに、その人はローソンの焼き鳥ももを求めるようになる。

 

 

抽象化。

 

 

そしてその人は、ローソンの焼き鳥ももだけではなく、普遍的な焼き鳥ももを愛するやうになるだろう。

 

 

抽象化。

 

 

その人は、普遍的な焼き鳥ももを愛する中で、そもそも焼き鳥自体を愛するようになっていく。

 

 

抽象化。

 

 

 

そして求められる概念としての焼き鳥が、焼き鳥のイデアなのである。

 

 

「すきなたべものはやきとりです。」

 

 

 

 

 

 

イデアを求められるようになること。

 

 

 

僕の8月はイデアを求め、遠ざかり、求めないままにイデアを捉えられなかった。

 

僕は何を美とし、何を醜とするのか。

それがわからないまま過ぎ去っていった。

 

 

 

 

風のように。

さざ波のように。

地下鉄のように。

 

 

 

 

イデアについて考えること。

 

 

星飾りのイデアを求められるようになること。

 

 

或いは、自分にとって、求める必要があるのかどうか、判断すること。